それでは、成就院の境内をご案内しましょう。門は清洲橋通りに面しています。地下鉄稲荷町駅より徒歩1分です。門前に駐車スペースがあり、車が2台駐められます。入り口には「御府内八十八ケ所 第七十八番 弘法大師 成就院」と彫られた碑があります。「御府内八十八ケ所」は江戸の中期、宝暦年間(1751~64)に開かれた霊場です。最近霊場ガイドが何冊も刊行され、多くの方がお参りにいらっしゃいます。
 左手には、掲示板があり、法語「ことばのマンダラ」を掲げています。毎週月曜更新です。先代住職が、四十年以上続けています。

門を入っていただくと、玄関正面に「成就」の額が見えます。以前玄関に使用していた木を使って彫って頂いたものです。左脇に小さく「願」「智慧」と彫ってあります。「願成就」「智慧成就」の意。ちょっとおしゃれでしょ。
右の木立の中に、宝篋印塔の一部があります。中には銅製の経筒のようなものが入っていましたが、まだ開けたことがありません。言い伝えでは梵字が記された紙が入っているとのこと。成就院は関東大震災で全焼しています。江戸時代から伝わる数少ない財産です。

正面玄関の屋根は千鳥破風、本堂の屋根は唐破風です。あえて形を変えたのが工夫です。本堂の棟の両端には大きな鬼瓦がのっています。

本堂の正面には玉持龍の彫刻が、両脇に阿吽の獅子の彫刻があります。これらは、「昭和の名工」といわれた金子光清師の作品です。ふらりと寺を訪れた方から、龍の裏に銘が彫ってあるとのご教示をいただき、初めて分かったことです。
金子師は、明治後期から昭和初期まで数多くの秀作を残された方で、代表作として、柴又帝釈天の本堂周囲に彫られた壮大な彫刻の一つ、『法華経』「塔供養図」があります。また、千葉の宗吾霊堂の本堂や鶴見の総持寺の唐門も金子師の彫刻です。是非合わせてご覧頂きたく存じます。
本堂の前には、修行大師像があります。弘法大師さまの、いま歩かんと躍動するときをうつした像です。裏の木立には、以前小学校があったと聞きました。いまでも土を掘ると、レンガの基礎が出てきます。また、戦時中は、防空壕が掘られたていたとの話も聞きました。地面の下にはさまざまな歴史が眠っているのですね。
本堂の斜め前に、弘法大師堂があります。成就院は、「御府内八十八ケ所」の第七十八番札所になっています。札所で大師堂が残っている寺は、珍しいそうです。
特に第二次世界大戦の時、家族の無事を祈って多くの方の参詣があったとのこと。昔は脇に休憩舎があったそうです。「般若心経」そして「南無大師遍照金剛」の御宝号が高らかにお唱えされております。お参りは気持ちの良いものです。
御大師様の像は、昭和になってから作られたもの。右手に五鈷をお持ちです。背後には、金剛界、胎蔵界の両部曼荼羅が掲げられています。檀家の方々の御寄進により、天蓋、曼荼羅、経机などが整えられて来ました。
さらに進むと、墓地の手前に水舎、お地蔵様、石仏があります。水舎は、昭和五十八年、弘法大師千百五十年御恩忌を記念して作られたました。龍の口から水が流れ出します。墓の入り口には、お地蔵様と石仏があります。石仏は江戸時代のもの。罰当たりな輩に石仏を盗まれたことが、ひとたびならず起こり、コンクリートで固めたとか。
『鬼平犯科帳』に成就院が登場するため、たまに、鬼平ファンが寺を訪れます。池波正太郎さんは、近くに住んでいたことがあります。成就院が登場するのは「夜鷹殺し」という話。夜鷹ばかりをねらった辻斬りが続発。しかし、下手人はなかなかつかまらない。業を煮やした鬼平は、密偵のおまさを囮にする。頭巾の武士に誘われたおまさは、「唯念寺と成就院との間にある小さな草地に入って行く」、ただ、それだけ。