成就院の沿革
寺院には山号・寺号・院号という3つの名前があります。成就院は、「摩尼山 宝光寺 成就院」といいます。「摩尼」とは、サンスクリット語で「宝」の意味。成就院は、宝物が光を放ち、そして願い事がかなうという、たいへん功徳のある名前です。ぜひお参りいただきたく存じます。
成就院の縁起を伝える文書は伝えられていません。江戸時代後期の文政年間に幕府に提出した「取調箇條書」(『文政寺社書上』所収)が古を偲ぶ最古の資料です。
成就院は、慶長十六(1611)年、開山鏡傳法印が神田北寺町に寺地を与えられ開かれました。その後、三代将軍家光の時代の慶安元(1648)年、江戸の町の膨張に伴う都市計画のため、現在地へと移転し、今日に至ります。移転した下谷は、江戸の町外れで、まわりは田んぼばかりであったため、 「田中の成就院」と呼ばれていました。また、当時は堀が近くにあったようで、藁の集積地であったとか。「わらだなの成就院」とも言われていたそうです。近くに「どぶだな」とよばれるお寺もあります。家を造るのに藁と土が必要だったのです。
『御府内寺社備考』所収の境内図には、地蔵堂、稲荷社、宝篋印塔が記されています。しかし、いまは伝えられていません。その後の記録は、あまり残っていません。安政の大地震や関東大震災などの火災で堂宇を消失したこと、廃仏毀釈の波を受け寺が衰微してしまったことが伝えられます。関東大震災後、境内地が大きく削られてしまいましたが、その時建立された堂宇が今日に伝えられています。